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名は大切なものだと思います。

 市町村合併で伝統的な地名が消えることにも違和感を覚えた。未​だに「どこそれ」といった地名も多い。当時、母の郷里栃木県氏家​町や喜連川町も合併して「さくら市」となった。桜が有名だからだ​そうだ。命名に際し両者譲らなかったこともあるのだろうが、残念​だった。
 
 泉佐野市が市名売却の是非が問われている。拙僧は反対だ。伝統​や文化をたやすく商品化するのは現代の縮図。松下ですら、あれだ​けもめて、ようやくパナソニックになった。しかし松下は商業だ。地名は違う​。
 
 当山には江戸時代開山上人筆の曼荼羅が格護されているが、そこ​には「山城国綴喜郡大住庄岡村」と今とほとんど変わらない地名が​記されている。それを拝する度に、時代を超えて先師と同じ軸を共​有する喜びを噛みしめている。

日の丸や君が代も然り。御本尊も然り。時代を経て共有している誇りを大切にしたい。
  
 私は名を大切にしたい。名は体を表す。

「妙法蓮華経と申は文にあらず、義にあらず、一経の心なり」 日蓮​聖人『曽谷入道殿御返事』 
  法華寺住職 中紙賢孝日梵
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時にはお金を使うことも必要

こんばんは

現在深夜一時過ぎ、夜更かしブログです[目]

[手(チョキ)]只今お彼岸で皆様からお申し込みいただきました卒塔婆をやーーーーっと書き終えました[手(チョキ)]


それはそうと、卒塔婆の語源って知っていますか[exclamation&question]

サンスクリット語のストゥーパの音写なんですよ!!ストゥーパ→そとうば  何となく分かりますよね[決定]

ストゥーパとは仏塔のことを言います。

お釈迦様が亡くなった後、仏様を恋慕渇仰し、その教えを高顕するために仏塔を建立しました。

仏塔を建立することが「修行」であり「功徳」と捉えるのです。

その後、仏教が伝来した日本でも豪族・貴族・大名などの有力者がこぞって五重塔などの仏塔建立を発願し、功徳を積みました。

ただ、これでは民衆には到底手が出せません。民衆がもっと簡単に功徳を積みたい。

こうして登場したのが木板製の卒塔婆なのです[ひらめき]

卒塔婆にはありがたい経文と、亡き精霊の法号を書きます。

日蓮聖人はご遺文の『中興入道御消息』で

「去りぬる幼子の娘御前の十三年に、丈六の卒塔婆をたてて、その面に南無妙法蓮華経の七字を顕しておわしませば、 北風吹けば南海の魚族、その風に当たりて大海の苦をはなれ、東風来たれば西山の鳥鹿、その風に身を触れて畜生道を免れて都卒の内院に生まれん。 況んやかの卒塔婆に隨喜をなし、手を触れ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母もかの卒塔婆の功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母と共に霊山浄土にまいり給わん事、水澄めば月うつり、 鼓を撃てば響きのあるが如しと思召し候え」

と、有り難い文章を残されています。

我々が卒塔婆を建てると、霊界ではとてつもないことが起こるのです。法華経でも「まさに塔を建てて供養すべし」と起塔供養を推奨されています[exclamation×2]

また、日蓮聖人は別のご遺文でも「我々の口から発したお経が金色の仏様となってあの世の精霊を尋ねて救ってくれる」とも仰っています。

目に見えないものへの畏敬の念を失い、物質に執着しがちな昨今ですが、自らの身を削って他者のために尽くし、卒塔婆を建てたり、お花や供物を購入し、時間と労力を使って寺詣り墓参りに行き、大切な命の源である先祖へ感謝の誠を捧げることは決して「損」ではありません。必ず自らに功徳が還ってきますよ。[わーい(嬉しい顔)]

目先では、交通費、供物代、卒塔婆・お布施ect・・・財布からお金がなくなり、折角の休日をレジャーに行きたいし、これだったらこのお金を自分達のために使った方がよっぽど有効的だし「得」なんじゃないか?と考えることが今時自然なのかもしれません。

仏教の教えや供養の意義などを、皆様に伝えきることができていない仏教界や僧侶は真摯に反省し、いっそう精進してその教えを示していく必要があるでしょう。

最近お寺に納骨をのぞむ相談が多く寄せられます。相談者の事情を聞くと

「親が他界したが費用がかかるし、忙しいので葬儀はしなかった。しかし、遺骨を家に置いておくわけにもいかない。墓地を建てるのも大金がいる。永代供養も費用がかかるので、ただ納骨してほしい」

と言うのです。この方は結局、骨を手放したいが投棄するわけにはいかないので、お寺に預けたというお墨付きがほしいんですね。

拙僧は思わず力が入ってしまい、

「お金お金と言うが、あなた結婚式の時にお金を沢山使ったでしょう。おたくの ”出来の良い”子供が成人するとき、やれ貸衣装?やれ晴れ着購入?記念写真?お金を沢山使ったでしょう。自分へのご褒美といって欲しい物を買ったことはありませんか?今回は育ててくださった親の供養。ここにお金を使えませんか?

どうして大切な親の人生の卒業式にお金をかけられないのですか?どうして葬儀にお金を使うことをいけないことと考えるのですか。当然お金はかかりますよ。費用はかかりますよ。でも重恩の親のために使うのですよ。仏教ではそのような行為を惜しむことを「餓鬼の所業」というのです。

お布施に決まりなど無いのだから、本当にお金がなければ、こちらは一生懸命供養もします。でも、あなたはただケチなだけで、金が惜しいだけ」

と言ってしまいました。こういった話はデリケートなんですよね。僧侶が「お金かかって当然」などと発言すると誤解されかねないのです。拙僧はその方の心の有り様を申し上げたのです。

医者に今晩が峠と言われた母が「一生に一度ダイヤの指輪を指にはめたかった」とうわごとを言えば、夜通し宝石店を探してでも指にはめてやろうと感じるのが人としての情であり報恩だと思うのですが、それですら「もったいない」と一蹴される。

明日無き命に大金は叩けないのだから、死人にはなおさらなのでしょう。不孝ですね。まったく。[バッド(下向き矢印)][パンチ]

紹介する法話、是非お読みください。分かりやすいです。
法話「四恩の大切さ」
http://www.rinnou.net/cont_04/rengo/2006-02.html
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列車中での想い出

 ダイヤ改正の度に、懐かしい列車が姿を消していく。今日も「寝台特急日本海」がラストランを迎えた。報道を見ていると、懐かしくもあり、一時代が終わっていく一抹の悲壮感がある。

 最終列車にホームから「ありがとう」と声がかかる。中には感傷的と捉える人もあるだろう。しかし、その対象が「モノ」であったとしても、感謝を抱く心は実に美しい。

 拙僧も約20年前に免許を取得し、給料をはたいて(当時浅草でサラリーマンをしていた)初めて購入した愛車「カローラⅡ」を手放すときの、あの寂しさは今でも忘れることがない。青春の想い出が全て詰まったような車だった。感謝を込めてワックスを塗って送り出した。今でもたまに同車種を見かけると、ふと自分が乗っていた車を思い出してしまう。

 仏教には「草木国土悉皆成仏」という考え方がある。チベット仏教ではそのような捉え方はしないようだが、ダライラマ法王は日本仏教のその思想に深く感銘を受けて、シフトチェンジしたと聞いた。さすが法王は固執していない。時代に敏感である。

 モノであっても自然であっても成仏するといった思想はいっけん非現実的のようだが、これからの時代に必要な考え方だと思う。現代日本は自分自身が生きるのに必死なあまり、自分本意の生き方に徹し、人の気持ちや、他者からの恩・善意、目に見えない神仏や先祖を意識しない傾向にある。他力本願なのに自己主張はしっかりする。してほしい(得)のに、し返さない(損)。

 あらゆる価値観が尊重される良い時代?なので、屁理屈も多い。自分が身を削って他者に喜びを与えることを「無意味・損する」と思う人が増えてしまった。モノも心も消費されるだけ。

 話がそれた。学生時代に「ムーンライトながら」という夜行に乗車した。定刻通り東京駅を出発。まぎゃくの席に座った老人はビールとちくわを用意した。夜行旅情を楽しむには欠かせないアイテムだ。品川を過ぎ、川崎に差し掛かろうとしている。その老人はまだ、ちくわの真空パックを開けられずにいる。横浜に着いた。結局開けるのを諦めてしまった。

 私はその老人に話しかけてちくわをスッと開けてあげた。老人は嬉しかったのか、自分の用意した酒やつまみを私にすすめてくれる。結局私の用意した酒やつまみも混ぜて楽しい夜行車中談義が始まった。いつしか話は戦争の話へ。先人の大変貴重な話だった。気がつくと一睡もせず名古屋。私も老人もあくびをしながら別れた。懐かしい想い出である。日本海の報道を見て思い出した。

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開かれたお寺づくりと正しい情報を定期的に発信すべき!

 先日京都府綾部町在住の面識のない男性から電話をいただきました。そして、遠路、当山までお越しいただきました。

「人生の壁にぶつかり、仲間を突然失い、生きる意味を模索してきた。上座部仏教やヨガや座禅などあらゆる宗教を試したが、自らの心の隙間を埋めるまでには至らなかった」

 「あるとき、偶然書店で日蓮聖人の本を読んだ時、その生き方に強く共感し、涙が溢れて止まらなかった。世法ではなく信仰を貫き、いかなる困難をも他者に原因を求めることなく、真摯に人生を歩まれた姿に勇気をもらい、日蓮聖人や信念の拠り所になった法華経を勉強してみたいと思った」

 「具体的には日蓮聖人が佐渡に流罪されたとき、鎌倉の弟子が赦免運動を展開しようとした。これを御祖師様は、迫害は経説の通りで自らは寸分の曇りもないと運動を拒否された。また、赦免後、幕府が大幅に譲歩し、宗門公認や広大な一等地を寄進するという、飛びつきたくなるような条件も拒否、幕府の思惑、つまり、信仰本意ではなく、表面的な宗教利用を見抜かれての行動だったなど」

「世の荒波に振り回されている自分にとって明確な道しるべになった」

 御祖師様が仮に世法を優先していたら、今の日蓮宗は味付けの薄い料理のようになっていたのでしょう。

 ここで彼が言っていたのは、家の近くにも多くのお寺があり、日蓮宗もある。しかし、ハッキリ言って近寄りがたく戸惑っていたところ、拙寺のブログに出会ったそうです。

 拙寺ブログは、真面目なことの他に、檀家さんとの出来事や想い出、、夕食後に住職を尋ねて一緒にラーメンを食べに行ったとか、宗教とは関係がない、くだけたこともアップしてあり、少し恥ずかしくなるような気もしていましたが、これがきっかけで少々遠いが、意を決して連絡してみようと思いったそうです。それでもかなり緊張したとのこと。

 物腰の穏やかな彼ですが、内に秘めた情熱に深く心をうたれました。そして、ネットには多くの情報が氾濫しています。中には日蓮の名を冠したカルトまがいの新宗教や団体も多く存在します。

 書店にも、あらゆる団体が発行出版した本が陳列されていて、慎重に選択しないと、誤った情報を受け入れかねません。

 その中で、よく拙寺にご連絡いただけたことは仏縁だと思います。彼を失望させることのないよう、精一杯精進したいと思います。

この仏縁を無にすることなく、失望させることなく努めて参ります。そして、今後も正確な情報を発信していきたく存じます。 合掌 


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3月11日が近づいてきました

 フェイスブック上で、3月11日に開催される京都マラソンに反対する日記を発見しました。

 以前著名人が震災後翌月のディズニ​ーランド再開時に一万人が行列し、子供がはしゃぎ、へらへらする​親の映像にふれ

 「未曾有の大災害が眼前に広がっているにもかかわ​らずが、いまだ同じ論理で生きる国民に警鐘を鳴らし、本当の復興​をしようと思えば「価値観」そのものを変化させる必要がある」

 と​発言したことを思い出しました。花見自粛の問題もありましたが、​慮る行為が大切と思い、当山では檀家さんと慰霊法要後、地味に行いました​。

 京都は送り火問題もありました。種々意見はありますでしょうが、拙僧もこの日付選考には感心していません。まだ一周忌ですので、少なくとも当日の午後​はしめやかに過ごしたいものです。 
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